ドイツに来て二年が過ぎました。
ベルリンでの生活にも慣れ、自分の個展を開けるだけの余裕も生まれてきたこの頃です。

私は普段、フリーランサーとして内装やアーティストアシスタントなどの空間や造形に関する依頼を請け負って生計を立てています。
個展などで発表しているインスタレーション作品は基本的に売れる「もの」ではないので、それらから収入を得ることはほとんどありません。
むしろ制作費や会場費などで出費がかさむばかりです。
といっても、個展を見に来てくれた人が私の世界観や表現に興味を持ってくれたり私の技術を買ってくれたりして内装やアーティストアシスタントの仕事が入ることも多く、仕事の依頼ではできないような実験をアートの現場で行なって新たな技術や知識を得ていることもあります。
また、制作にかかったお金は経費として落とすこともできるなどの利点を考えると一概に個展や制作活動をただの出費や道楽と捉えることはできません。

こういったアートに関する内情やお金のことを話すのは日本ではタブー視されることが多いのですが、それゆえに若い人たちがアートに関わって生きていこうとするときに知っておいた方がいい重要な情報が日本では中々手に入れられないことが問題だと私は前から考えていました。
といっても私はまだ30にも満たない若輩で、発信できる情報はそんなに多くありません。
それでもこの2年、ヨーロッパを主として世界各地から多くのアーティストが集まって暮らしているベルリンでアーティストアシスタントの仕事に関わったり、いろいろなギャラリストやキュレーターの人を紹介してもらって話をする機会を頂いたりして、少ないながらも発信する価値があると思える情報や経験が手元に増えて来ました。

ということで、ここらで少し情報を整理しつつ私が得てきたものを文字に書き起こしてみたいと思います。
これから書くことはあくまで私が集めた情報や経験からの言葉であり、あくまで一個人の意見や一例でしかないので、鵜呑みにしないよう気をつけながら参考にしていただけたら幸いです。




・アートとは? - 概念と感性、ヨーロッパのアートと日本のアートとの大きな違い -


まずは最も根本的なところ、アートとは何かということについて考えてみましょう。
とはいえ、アートについての定義は未だに議論の尽きない問題であり、ここで誰もが納得できるような定義を出そうとは思いません。

むしろ私が注目してもらいたいのは「一言にアートといっても、何をアートとみなしているかはそれぞれ違う」ということです。
でも「それぞれ」ではザックリし過ぎですよね。
ここで「人によって違う」と言ってもいいのですが、それでは話しの収集がつかなくなってしまうので、今回は「日本とヨーロッパで違う」という話しをしましょう。

表面的に見れば日本でアートと言われているものも、ヨーロッパでアートと言われているものも内容ほぼ同じです。
絵画・彫刻・映像や、様々な手法を用いた現代美術など、美術館やギャラリーで展示されている作品をとりあえずアートとして捉えているのは日本もヨーロッパも変わりありません。
ただ、アートをどのように捉えているのか、アートの本質をどこに見ているのかということについては日本とヨーロッパでは大きな隔たりがあります。

日本で「アートの本質とは?」と聞くとどういう答えが返ってくるでしょうか?

ちゃんとアンケートをとったわけではなく、私の今までの経験上からの答えで申し訳ないのですが、私がよく聞く答えは「作ること(表現すること)」です。
ちなみに(表現すること)と表現することをカッコで閉じていることには意味があります。
日本人の言う「表現すること」とは自分の手で何かを生み出すことであり、それは結局のところ「作ること」への信奉だと言えるでしょう。

一方でヨーロッパのアーティストが同じように「表現すること」をアートの本質として答えたとしても、それの意味することは日本人の信奉する「作ること」とは全く異なります。
むしろヨーロッパではアートにおける「作ること」の意義は日本よりずっと低いと言ってしまっていいでしょう。
私がベルリンでよく聞くアートの本質部分とは「コンセプト」であり、彼らの言う「表現すること」とはつまるところ「どのようなコンセプトを作るか」ということなのです。

私もアーティストアシスタントの仕事を始めて驚いたのですが、いわいる売れっ子と言われるアーティストのほとんどは自分の手で作品を作っていません。
本当にびっくりするくらい作っていません。

アーティストは指揮者や映画監督のようなもので、新しい作品のコンセプトやイメージスケッチを書き出すと、実制作はそのコンセプトシートやイメージスケッチを元にアーティストアシスタントに任せたり製作専門の業者に外注したりすることが普通です。
(アーティストが彫刻会社に自分の作品として展示する彫刻を外注するなんてことも珍しくありません。)

もちろんそのような現状に対してヨーロッパ内で批判がないわけでもないのですが、そんな批判はごく一部であり、そもそもこのシステムを問題視している人の方が珍しいくらいです。
なぜアーティストが自分で制作をしないことがこれほど当たり前のこととして受け入れられ、コンセプトの方が重視されているのか、それにはちゃんと背景があります。



1. 歴史的背景


ヨーロッパには徒弟制という文化が古くからあり、巨大な壁画や彫刻から小さな絵に到るまで、親方を筆頭とした工房という大所帯で組織的に制作が行われていました。
巨大な作品を大人数で作る必要があるのは言うまでもないですが、なんで小さな絵まで?と思う人もいるでしょう。
答えは単純、量産するためです。
もちろん下絵から筆入れまで全て作家本人が行なった作品もありますが、そのような作品は全体で見れば稀少です。

作品を作るというのは大きさに関わらず思った以上に時間がかかったりするもの。
お金に余裕があり、制作で生計を立てて行く必要のない高等遊民的芸術家などなら話は別ですが、制作で生計を立てている人たちは今も昔もとにかく作りまくらないとなかなか生きていけません。

ですが、たとえ小さな絵でも一人で量産して売りさばくのは難しく、大きな仕事が入るようになるとますます一人で全ての依頼をこなしていくのは難しくなります。
そこで名の売れた巨匠は親方として自分の工房を持ち、巨匠を目指す若者たちは工房に入り、親方は自分の技術を弟子に教え、弟子はそれを吸収しながら親方の作品を仕上げ、一人では不可能な数の作品を量産していくのです。
たとえその作品のほとんどが弟子によって作られたものでも、下絵を描いてどう仕上げるか指導したのが巨匠であれば、その作品はあくまで巨匠のものであり、弟子は独立するまで巨匠の手足でしかないのです。
(漫画家とアシスタントの関係を思い浮かべてもらったらわかりやすいかと思います。)

技術は工房の中で伝授され共有されるものであり、受け継ぐことの不可能な「誰にも真似できないその人だけの技術」というのは超絶技巧として高く評価されることはあっても、結局のところ表現の本質ではなく表現を構成する要素のひとつでしかないとみなされます。
そうでなければ工房というものは成り立ちません。
もしヨーロッパで「このアーティストのこの作品はアーティスト自身がほとんど制作していないからアートとはいえない」なんて言ってしまったらこの歴史まで否定することになりかねないのです。

(日本にも徒弟制や分業制はあったのですが、明治以降に西洋絵画が入ってきた際、伝統的な徒弟制とは切り離された「技法」や「もの」としての絵画だけが輸入されてきたため、芸術と伝統的な徒弟制が別のものとして認識されるようになったのではないかと私は考えています。)

ただ、この説明だけでは「なぜコンセプトが重要か」については分かりませんよね。
それについてはもう一つ別の背景があります。



2. アート業界の構造的背景 - ギャラリスト、キュレーター、アーティストアシスタントの重要性 -


アートで名を売り生計を立てていくことは、昔より文明が発達し生活に余裕ができた現代でも相変わらず困難です。
私のようにアートとは別に収入を得ながら制作をしている場合はともかく、アートだけで生きていくにはアート業界に流れるお金をなんとか自分のところに引き寄せ勝ち取る必要があります。

ではどうやってお金を勝ち取るのか?

主な方法はギャラリーなどと契約してアート市場で自分の作品を売ることと、行政・企業・美術館などが実施しているコンテストの賞金や助成金を勝ち取ることの二つです。
日本でもこの二つがアーティストとして生計を立てていくための数少ない道であることには変わりないのですが、ただ、ヨーロッパに比べ日本はまともなギャラリーの数が少なく、そもそも日本国内だけ見たらアート市場などほとんどないも同然(アートの国内需要がない状態)であり、助成金も芸術祭などのような大規模なイベントに対するものばかりで、アーティストが個人で申請してもらえるような助成金はほとんどありません。

ぶっちゃけ日本でアーティストとしての収入だけで生きていこうとするのは絶望的です。
もし有名になって作品が売れるようになったとしても、日本国内で作品の価値を理解して買ってもらえることは少なく、芸能人のサインを買うような感覚で作品がやりとりされてしまうのも悲しいところです。

日本でギャラリーというと展示設備の整った部屋を日割りや月割りで貸し出して運営を成り立たせている、言ってしまえばただの賃貸物件であることがほとんどですが、ベルリンではそのような箱貸し専門のギャラリーはまだ見たことがありません。
考えてみればヨーロッパのギャラリーは見込みのありそうな作家とその作品を需要のありそうなところに売り出して仲介手数料をがっぽり取って利益を得ることができるので、日本みたいにお金のないアーティストから賃貸料を取って細々運営するなんてことをやろうとも思わないのでしょう。

その代わり、どんな小さなギャラリーでも必ずコンセプトシートとイメージスケッチもしくは作品本体の提出を求められ、その作家と作品がこのギャラリーで展示をするのに相応しいかどうか審査されます。
日本みたいにとりあえず場所を借りて、とりあえず作ってみて、とりあえず展示してみるということができないのです。
ギャラリストは作家のコンセプトシートと作品を見て審査し、実際に展示させてみて見に来た人の反応を窺い、作家の有望性を判断します。

ここで 「でもなんでコンセプトシートが必要なの?売れそうかどうかは作品を見たらいいんじゃないの?」 と疑問に感じた方もいるでしょう。
そう、この部分こそが重要なのです。
その作家が売れそうかどうかは作品本体ではなくコンセプトシートで判断されるのです。

日本人は「もの」を見て「もの」を買いますが、実はヨーロッパの人々はそうではないのです。
彼らがアートを鑑賞し、買うときに見ているのは作品という物質的・形而下的な「もの」ではなく、アートの文脈や歴史的・社会的背景などの教養に裏付けられた形而上的な「こと」なのです。

日本人は芸術を主に感覚で楽しみますが、ヨーロッパ文化圏の人々は芸術を主に頭で楽しんでいます。
ヨーロッパでは「概念」でアートが鑑賞され、日本では「感性」で鑑賞される。
これこそが私がベルリンに来て再認識した日本とヨーロッパのアートの根本的な違いです。

よく、わけのわからない現代美術作品にとてつもない金額がつけられたりしていますよね。
特別な素材や技法を使っているわけでもないのに、なぜ高額でそんなものが取引されるのか?
それは作品を「もの」として見ていたら絶対にわかりません。

その作品の価値を理解するにはアートの文脈や歴史・社会的背景など多岐にわたる知識=「教養」が必要であり、教養がなければ価値がわからない、逆に言えば教養があるからこそ価値がわかるという点にお金を払うだけの価値が発生するのです。

たとえば歴史をひっくり返すほどの証拠となる石が太古の地層から掘り出されたら、その石には途方も無い金額が付けられますが、何も知らない人にとってはそれはただの石でしかありませんよね。
たとえその後同じ石が沢山見つかって鉱物としての価値がなくなったとしても、歴史をひっくり返したその石だけは価値が下がりません。
人々はその石の背後にあるストーリーに価値を見出すのであり、そのストーリーを理解しているということが教養なのです。
その石を現代アートの作品に置き換えてみたらどういうことかわかりますよね。

つまり、現代アートを理解し、楽しみ、お金を払えるというのはそれだけの余裕と教養があるという証しなのです。

だからこそヨーロッパの金持ち達は若いアーティストの作品でも「この作家のこの作品はアートの文脈から考えたら大切なものになる!」と判断したらぽんっととんでもない金額を払います。

そこでギャラリストが教養を持った人たちにこの作家がいかに価値がある存在かを説得するのに必要なのが「その作家はどういった理由や考えでどういったものを作っていて、どこを目指し、アートシーンをどう動かしていこうとしているのか」という情報であり、それを見極めるときに必要なのが「コンセプトシート」なのです。

もちろん作品も大事ですよ。
いくらコンセプトが良くても、作品の質が悪ければ説得力が生まれませんからね。
でも、コンセプトと作品の質が良ければ、別に作家本人が手を動かして作る必要はないんです。
ヨーロッパの主な鑑賞者が見ているのは「もの」ではないのですから。


「コンセプトシート」を重要視しているのはギャラリストだけではありません。
美術館を運営し、他の美術館とはどう違うのかという「美術館の個性(アイデンティティ)」を作家選びや企画展によって打ち出したり、誰に賞や助成金を上げたらいいかを決める際に決定やアドバイスを行ったりするキュレーター(日本語訳は学芸員)と呼ばれる人々もコンセプトシートによって作家を選びます。

ギャラリストが「売れる作家」をコンセプトシートから選別しているのに対し、キュレーターは「文化を発展させてくれる作家を探すこと(新しい文脈の開拓)」と「文化的に重要な作品を残していくこと(文脈の体系化)」の二つをコンセプトシートから読み取って選別するのがお仕事です。

文化的に重要な作品の収集は、すでに売れた作家の作品やあまり有名ではないけれどこの作品なしでは後の文脈が語れないという作品を美術館や歴代のキュレーター達が築き上げてきたネットワークや予算を駆使して集めていく作業になるので、新しい作家のコンセプトシートは必要ありませんが、「文化を発展させてくれる作家」はコンセプトシートなしで探すのは困難です。

コンセプトシートはいわば作家の頭の中を覗く手がかりであり、コンセプトシートがないというのは地図なしで航海をするようなものです。
その作家の考えていることが全くわからないまま突然作品だけを見せられても、その作家や作品を文脈の中のどこに位置付けたらいいのか分かりませんからね。

文化という大海原を航海をしているのはギャラリーも一緒ですが、ギャラリーは利益が出ればいいので基本的に売れそうな作家を売ろうとする以上のことはあまりしません。
営利目的であるギャラリーは着実に利益を上げていくためにすでに売れ筋の見えている安全な航路を使って商売をしますが、そもそもが営利目的ではない美術館は時に新大陸を求めて冒険をすることも許されます。
そしてその船を動かす冒険者や集めて来た財宝を守る守護者達がキュレーターという存在なのです。

キュレーターがいなければ今ある文化はあっという間に「消費」され、新しい文化もほとんど発展しないままどんどん先細りしていくでしょう。
そうなってしまうと国にとっては大きな損失となってしまいます。
それを防ぐため、先進国の多くは文化の担い手であるキュレーター達のいる機関に多大な予算を割くのです。

ただ、キュレーターの重要性を認識するにも教養が必要で、教養がない人達から見たら税金の無駄遣いに見えてしまうことも多く、そこをどう説得していくかというのが多くの国が抱える悩みです。


以上のように、アーティストが制作だけで生きていこうとするとき、キュレーターやギャラリストにどう見初めてもらうかというのが重要になります。
現在見えている売れ筋から外れていてギャラリーに見出してもらえなかったアーティストも、キュレーターに見初められて賞や企画展や助成金が得られれば、新たな潮流として日の目を見ることができるのです。

といってもそれは簡単なことではありません。
いったいベルリンだけで何人のアーティストがいるのでしょうか。
ヨーロッパ全体で見たら、世界全体で見たら、どのくらいのアーティストがいて、それに対してどれほどのギャラリストやキュレーターや鑑賞者がいるのでしょうか。
アーティストの量に対して、アート市場やアート業界が抱えられるアーティストの許容量はきっとそんなに多くありません。
そんな中で制作と生活に必要なだけのお金を勝ち取って生きていこうと思ったら、並大抵の努力では無理でしょう。

私にアーティストアシスタントの仕事を振ってくれている人たちは、そんな熾烈な競争の中で人を雇えるほど頑張って制作を続けている人達です。
ギャラリー契約をせずに活動を続けているある人は、毎日毎日恐ろしいほどの量のコンセプトシートを書き、それをコンペや助成先に送って作品を作っています。
見ている感じだと、1つの作品の裏には少なくとも3~10のコンセプトシートやイメージスケッチがボツになっているでしょう。
コンペや助成金の申請書は必ず通るとは限らないため、数打ちゃ当たるで沢山送って、時にそれが沢山当たりすぎて一月の間に一人では到底さばききれないほどの大量の展覧会を抱えることになったりします。
また、ギャラリーと契約している売れっ子の人はそれとは逆に、新しいコンセプトとイメージスケッチを一枚送っただけでギャラリーが大量の展示依頼を取って来たりします。

そうなったときに一人で全ての展示に出す作品を作るのはどう考えても無理です。
アーティストアシスタントという存在なしで現在のアート業界を生き延びるのはたった一人で大海に漕ぎ出すようなもの。
広い海に出れば出るほど大きな船と沢山の人手が必要になるのと一緒で、売れっ子になればなるほど、アーティストの作品は作家一人の手だけで生み出されるのではなく、アーティストを船頭とした一つのチームによって生み出される大きなプロジェクトとなっていきます。

まだ売り出し中の人は展示スケジュールが安定しないので、プロジェクトごとにフリーのアシスタントを雇うことが多く、売れっ子になってくると専属のマネージャーと専属のアシスタントでチームを作り、プロジェクトの数や規模に従ってフリーのアシスタントも使用するということが多いみたいです。

ちなみに、詳しいことはまた別の章で書きますが、プロジェクトで動くお金はとても大きくても、アーティストに入るお金は少なく、また制作後に後払いで支払われる助成金や報酬も珍しくないため、多くのアーティストは売れっ子でも制作の度に赤字を抱えており、彼らの預金通帳は支出と収入が激しく波打って上がり下がりしています。
大洋へ出るほど波が大きくなるのも航海とよく似てますね。




・日本のアートはヨーロッパでは通用しないのか


さて、初回からすでにだいぶ長い文章になってしまいましたが、日本人がよく言いがちな「作家本人が自分の手で作っていないものなどアート作品として認めない」ということをヨーロッパで言うと「何言ってんだこいつ?」という冷たい視線を投げられる理由がお分かりになりましたでしょうか。

ただ、注意していただきたいのはここで私が言いたいことは 「だから日本のアートはおかしい」 ということではなく、「日本人とヨーロッパの人々との間ではこれだけアートに関する認識が違う」 ということです。
ここでその違いを優劣で判断してしまうのはナンセンスだと思います。

ヨーロッパの美術大学に通う人々は現在のアートの文脈を美術史だけでなく深く広い歴史・社会的背景にまで及んで学習し、その中で自分がどの立ち位置にいるのか分析し、その上で自分がその作品をどうして作ったのかをちゃんと説明できるように切磋琢磨しています。
そんな環境で育った人たちと、日本の中で日本の美大教育を受けた日本人アーティストが欧米人の作り上げたアート業界でやりあおうとしても不利です。

それは日本人が劣っているからではなく、形而上の「こと」で勝負をしている人々の中に形而下の「もの」で勝負しようというズレた行為をしているからです。
そもそも根本的なところから勝負の仕方が違っているから、勝負にすらならない。

実際、「もの」として作品を見たら日本人アーティストの作品はヨーロッパに劣っていないどころか、質的にはるかに優れているものも多くあります。
しかしその優秀さは欧米人の作ったアート市場の上ではあくまで工芸品的な美しさとしてしか評価されず、日本人アーティストに対しての評価も芸術家としての評価より職人としての評価になりがちです。

それはそれで、職人寄りの芸術家として工芸品的芸術作品を狙って売り出すのもありでしょう。
もしくはあなたが頭脳派の作家なら、海外の大学に留学してコンセプトシートを書く訓練を行い、欧米のアート業界に真っ向から挑んでいくのもいいでしょう。
あるいは、もしもこれができるのなら私はこれが一番いいと思うのだけど、日本の「感性の芸術」を欧米の「概念の芸術」の文脈の中に組み込んでいけるキュレーターを育て、新たな潮流を生み出し、その上で欧米のアート市場に日本人作家を売り出して行けるギャラリストを育てることができれば、日本の中でもアートで生計が立てられる人が少しは増えるだろうし、日本の中にも欧米のアート市場の中にも新しい価値体系が生まれて面白いことになるんじゃないだろうか。

ただ、感性の芸術を概念の芸術の構造に組み込んでいくには相当高度な言語化能力と幅広い知識が必要になるだろうし、それができる人材を複数育てなければいけないから、かなりの予算と時間が必要となるでしょう。
もしくは、手っ取り早くそれができる外国人キュレーターを国がヘッドハンティングして雇っていくか。

いずれにせよ、日本のアートとヨーロッパのアートは違うということを認識した上で、よく考えて売り込んで行けば日本のアートでもやりようはあるし、通用しないわけではないと私は思います。



長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。
すみません、これで終わりじゃないんです。
次回はアーティストという生き方やアーティストになることの利点と欠点などについてもうちょっと突っ込んで書きたいと思います。
アーティストを目指す学生さんなどに読んで貰えたら幸いです。
あと、今回書いている内容について違う見方や意見のある方、もしくは間違いを見つけたという方がいらっしゃいましたらぜひメッセージをください。
ここに書いたことは私の主観がだいぶ入っているので、客観的な意見を頂けたらとてもありがたいです。




DSC_0386.jpg
写真:アーティストアシスタントで制作を手伝った際に出てきたパーツの残骸。並べると廃墟都市みたいで美しかったので仕事をしながら出てくる残骸をどんどん並べて遊んでた。(本文の内容と写真は特に関係ありません。)



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